“流鏑馬競技の聖地”十和田
「馬の街」十和田市を中心とした青森県南地方は、かつて年間1万5千頭におよぶ日本最大の取引が行われ、明治以降の“日本の馬産業”を支えた、国内3大馬産地の一つであった。
「馬の街」十和田市を中心とした青森県南地方は、かつて年間1万5千頭におよぶ日本最大の取引が行われ、明治以降の“日本の馬産業”を支えた、国内3大馬産地の一つであった。
十和田市はかつて三本木原と呼ばれ、風が強く、土地は乾燥し、植物も育たない不毛の台地でした。安政6年(1859年)に新渡戸傳翁によって上水灌漑事業が行われ、拓かれた「若いまち」で、青森県東南部、秀峰八甲田の裾野に拓けた緑の三本木原台地の中央部に位置し、国立公園「十和田湖」の東玄関として知られています。十和田市の市街地は、「碁盤の目」に整然と区画された「美しいまち並み」が特徴であり、「平等と民主の精神」の元に形成された「格子構造」のこの都市計画こそ「近代」都市計画であり、十和田市がそのルーツと言われています。同じ「格子構造」を持つまちとしては札幌市が有名で すが、三本木町(十和田市)は安政2年(1855年)に建設が始まっており、一方札幌市は北海道が松前藩の領下にあった頃、幕府が会津六藩に保護・奨励を加えて開拓を促進させたことに始まったと考えられています。ただし、その計画は達成されず、実際には明治新政府の開拓使によって推進(明治2年・1869年)されたので、三本木町(十和田市)の建設は札幌のそれよりも14年早いことになります。
ここ南部地方一帯は、遠く平安・鎌倉時代から多くの名馬を輩出しており、十和田市でも、藩政時代の文久3年(1863年)に馬市が開催されて以来馬セリで賑わっていました。田畑も集落も少ない大草原で、七戸・六戸・五戸・三戸といった南部馬の大産地に囲まれたこの土地は大量の馬を飼うには最高の土地と考えられ、明治17年には軍馬育成所(後の軍馬補充部)が開設され、馬産地としても知られていました。後に軍馬補充部三本木支部と改名されました。軍馬補充部三本木支部の役割は、セリ市で2~3歳馬を買ってきて、5歳の秋まで育成・調教することでした。明治18年の創設当初は100頭前後を購入するに留まりましたが、施設が拡充されるに伴って馬の頭数も増えていき、明治34年には支部本部670頭、七戸派出部700頭をはじめ各分厩(きゅう)に300~400頭が飼育され、総頭数2800余頭を誇り、全国から集められた騎兵や優駿という「お手本」を目のあたりにした馬産家たちによって、馬の改良も飛躍的に進みました。大陸戦争が本格化する昭和12~13年にわが国には140万頭余りの馬がいましたが、そのうち70万頭以上が軍馬として戦地に送られました。馬は「生きた兵器」といわれ、道路事情の極度に悪かった大陸の戦地では欠くべき輸送力であり、供給源は主に青森と岩手からでした。軍馬補充部が終戦時に全ての記録を処分してしまったため、具体的な頭数などわかっていません。
十和田市のシンボルロードで日本の道100選に選ばれている官庁街通りは別名「駒街道」と呼ばれています。官庁街通りはもともと軍馬補充部三本木支部があった所で、歩道には蹄鉄が埋め込まれていたり、馬に関連したさまざまなオブジェが並び、補充部時代に植えられた松や桜がそれぞれの季節を彩っています。特に4月下旬には華やかな桜並木と桜流鏑馬を一目見ようと市民はもとよりたくさんの観光客で賑わいます。
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